銀河ぐらますガイド 造型分室

元プロモデラー・もこもこフジタの、やっつけ模型ブログ

2015年03月

とりあえず、オモシロめなネタを優先してますんで、いきなり
ツノってなんだ?
と思いますが(笑)
たぶん、私が今までやった仕事の中で、一番メジャーなのはコレです
本家で前にも載せたんですが、ネタ的に面白いので、載せてみました。

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▲コレ。いや、作ったのはゼノン石川じゃないですよ(分かってるって)。ツノ。このツノも、何度も作り直されてると思うので、この写真が俺の作ったやつかどうかは分からないですが。

私と聖飢魔IIは、妙に因縁があります。
デーモン小暮閣下は、MAX渡辺氏の後輩なんですね。
その昔、MAXファクトリーに手伝いに行っていたとき、「こんな面白いバンドをやっているやつがいる」という話を聞きまして、それが、実は、デビュー直前の頃の、聖飢魔IIでした。

今でこそ大メジャーですが、当時はメジャーデビュー前のインディーズバンドですので、誰も知りません。
後輩である関係で、デビューアルバムの発売前のサンプル版が何枚もありまして、一枚もらいました。
その段階で、ファンになりましたね。
もっとも、デビュー後は、評価はしているけど、好みで言えば、それほど好きじゃないんですが(笑)

そのレコードは、もう存在しないので、記憶に頼ると、内容が、キングギドラの声やら、キカイダーのドクターギルの台詞やら入ってて、かなりオタクくさかった気がします。
その後、発売された正式版のレコードは全然変わってました。
たしか、権利関係ヤバいので、修正されたという話だったように記憶してます。
デーモン小暮はめっちゃ大人しくていい人、みたいな話を色々聞いた覚えがあります(笑)

その後、聖飢魔IIはデビューして、どんどんメジャーになっていくんですが、メジャーといったって、後期に比べたら、まだまだマイナーな、数年後の時期。
当時、俺は東京の三鷹市に住んでいたのですが、そこに、ジャップ工房というレザーやシルバーなんかの工房がありました。
今では、だいぶ大きくなったみたいで、吉祥寺に移転しているので、知っている人も多いと思います
最近は、よく、特撮ものや、そっち系の映画とかの衣装なんかも作ってる、あそこです。
当時は、まだ、小規模な工房でした。
友人がそこに出入りしていたりしたので、割と知ってる場所でした。

そこが、
聖飢魔IIの衣装を作っていて、その友人を通して、聖飢魔IIの小物を大急ぎで作って欲しい、と頼まれて、作ったのがツノ等です。
まだ、大メジャーじゃない時期なので、たしか予算はすんげえ安かったですよ、いや、単にピンハネされてただけかもしれませんが(笑)
うろ覚えなんで、間違っているかもしれませんが、ライブが迫っているので、大急ぎで作って欲しい、という話だったように記憶してます。

大急ぎだったので、きちんと原型を作る時間もないので、粘土で原型を作ってシリコンで型取りし、そこにキャストを流し込んで作りました。
頭につけて動くものだから、軽量化のため、内部をリューターで削って空洞にして、根元に蓋して、固定用のボルトをつけたのは、よく覚えてます。
シルバーで塗装して、傷つきやすい衣装だから、目一杯クリアで厚くコートしたはずです。

模型ってのは、雑誌には出るけど、映像メディアにはめったに出ない時代でしたので(インターネットなんか無い時代ですよ)、自分の作ったもんがテレビにしょっちゅう写ってる、ってのは、ちょっと嬉しかったですね。

昔は子供のスタンダードな遊びだった模型ですが、今や、すっかり大人のお金持ちの趣味と化しています。
カスタムパーツから工具まで、本当に、お金させ出せば、何でも揃わないものはない、というぐらい、充実している時代になりましたが、そんな現在の模型シーンを見ているところから、昔を振り返ると、色々と思うことは多いです。

まあ、ありとあらゆる方向で、いろんなことを思いますが、そんな話をひとつ。
昔の話を書くと、色々支障が多い部分もあるので、あんまり突っ込んだ話はできないんですが、リクエストもあったので、そーいう話も織り交ぜていこうかと。

今、いろんなオタク系のマンガだとか、ラノベだとか、ブログだとかHPだとか、そういうので模型ネタを読んでいると、たとえば、一例として、しばしばMAX渡辺氏の功績ネタというのに出くわすわけです。
念のために言っておきますが、私とMAXファクトリーとの関係は、ホームページのコラムに書いたので、そういう話じゃありません。
一例としてMAX先生の功績を引き合いに出すだけで、以下、決して、批判ではありませんので、誤解なきようにしてください。
とにかく、今の模型シーンに至る上で、そういう、「こんな経緯があった」「こんな凄いことがあった」みたいな一種の伝説が広まってしまっていて、そればっかり言われているわけですが、そういうのは、あまりにカリカチュアライズされすぎているというか、一面的すぎるんじゃないかなぁ、と感じることが、しばしばあります。

だいたい、どの業界でもそうですが、後年、功績を伝説として残る人というのは、プロデュースが上手だったり、マネージメントやパフォーマンス、トークなどが上手だったりすることで、常に表に出るから、伝説に残るわけですが、人間誰しも、一人では何もできないので、当然、その裏には、名前も出ないで屋台骨を支えたまま消えていったりした人たちが、たくさんいるわけです。
映画なんかだと、たまに実話で、そういう「裏方にスポットをあてた」映画がありますが、要するに、そういう話です。

たえば、模型雑誌「ホビージャパン」のお家騒動で、みんなが辞めてしまって窮地に陥ったとき、MAX氏が尽力した、というのは、よく言われる有名な伝説ですね。
これは、だいぶ誇張があるにしろ事実ですし、MAX氏がHJの危ないところを支えた大きな功績は、まぎれもない事実だとは思います。
しかし、もうちょっと目線を広く取ると、氏一人で全部支えられるわけはないので、その裏に、どれだけの人がいたか、という、そういう話です。

ちょうど、私が現役だった期間ぐらいですが、あの時代の模型雑誌というのは、とにかく人材が不足していたし、時間もなかったし、ノウハウも足りなかったし、そのくせページだけは多いし、という、ムチャな時代が長く続いたと思います。
HJの騒動だけ見ると、HJだけに人材が足りなかったように思えますが、当時は、模型業界全体がそうだったと思います
製品はたくさん出るのに、それに対して、試作から完成品を作る人まで、あらゆるステップで、人材が足りない、という部分があった、要するに、出る製品の莫大な数に対して、使える人間の数が追いつかない、という感じです。
人材が足りない以上、一人一人がキャパシティオーバーになるし、物理的な時間も足りなくなる。
そんな状況がずーっと続いたからこそ、常に「上手なら来るものは拒まず」で個性的なモデラーさんがたくさんデビューできたし、好き嫌いは別として、とにかく個性があってバラエティに富んで面白い、という一種奇跡的な状況が出来てました。
読者の方も、模型がどうこう、というより、「そのモデラーさんのファン」という位置づけが出来ていて、イベントにいくと、握手やサインを求められるなんてことが普通にあって、面白かったですよ。

何が言いたいかっていうと、そういう激動の時代を乗り切ってきて、今の状況があるわけですが、そんな中で、とにもかくにも、雑誌が潰れなかったり、業界が尻つぼみにならなかったことの裏には、今では名前もほとんど忘れられている、あるいは、当時からほとんど名前が出ていなかった、多くのモデラーさんが、必死で時間も金もないのに、徹夜で仕事してきたことの功績があると思うんです。
たとえば、俺の時代の人だと、友人の野本氏はもちろんですが、HJのライターなら、Kくんや、Hくん、はたまた別のHくんやNくん(みんな年下なので、くんづけにしますけど)などなど、あとは誰かなぁ・・・今は亡くなってしまった、あの人やあの人も・・・結構たくさんいますけどね
揚田さんや、村尾ゴジラさん、越智さん、山田卓司先生などなど、今でも有名な人は、この話の対象ではないので省きますが、とにかく、その「近年は名の出ない」多くのモデラーがいなかったら、HJは成り立ってなかったと思います。
本当に実感として、彼らがいなかったら、あの雑誌は潰れてたよなぁ、と今は強く思いますですよ。
むろん、MAXファクトリーの存在も大きかったですが、それも、実際には、私も含めて、メンバーやお手伝いのKさんやNさん、OくんやCくんたち、彼らがぶっ続けで徹夜で仕事したからこそ出来たんで、真のファクトリーはむしろ彼らであり、彼らがいなかったら絶対成り立ってなかったです。
MAX氏のマネージメント功績が大きいことは事実ですが、本当に正直に感想を言えば、どちらかといえば「マネージメント担当」で、現場の大半はメンバーが担当していました。
私個人の印象では、氏の立場は「モデラー」というより、「監督」「マネージャー」「コーチ」だと感じてましたので、後年、MAX氏が「モデラーとして」の部分を持ち上げられて評価されるのは違和感を感じてます。

たとえば一例をあげると、ボトムズの総集編のビデオのOPは、本当にキツいスケジュールで(一部私も含む)メンバー、お手伝いの彼らが徹夜ぶっ続けで何個も模型を作っていたからこそ完成したわけです。
当然、報われてしかるべきなのですが、たかが数人ですので、充分にクレジットを入れる余地があったはずなのに、彼ら裏方の名が一切クレジットには出てこないでMAXファクトリーとだけクレジットされている。
そうしてしまえば、功績は一人のもののように見えてしまうので、やっぱり、必死でやって、功績が一切表だって認められない場合、人間、モチベーションの低下が避けられないですし、この件は、不遇すぎだと当時から感じてました。
これ以上は大人の事情で差し障りがあるので、ご想像にお任せしますが、当時、この件に関しては、メンバーの間でも、かなり不満の愚痴が聞かれたのは事実です。

あまり表だって名の出てない部分では、雑誌のほうでは、ほとんど名の出てないHJお手伝い戦力のYさんの功績は計り知れないと思いますし、むろん編集のS氏、I氏、K氏、U氏などの限りない努力(彼らは、実は自分らでも模型をたくさん作ってました)などなどもあります。

特にカメラマンのH氏は、みんな若いモデラーだったから、仕事態度もいいかげんで、全然ブツが上がってこない厳しいスケジュールの中、何年も何年も、ほとんどの写真を彼一人で撮り続けていて、凄かったです。
H氏の仕事がなかったら、オーバーではなくHJは出なくなってたと思いますし、最大の功労者の一人じゃないかと思いますね。

彼らは、みんな、本当なら、もっと功績を褒め称えられてもいいんじゃないかと思いますね。
今は情報過多の時代ですから、もう少し、そのへんの裏方の功績に目を向けてもいい時代がきてるのではないか、と感じます
まあ、とかく伝説というのは、カリカチュアで、功績も罪も、一点集中になりがちですが、そういう裏の部分に、もうちょっと目を向けてもいいんじゃないかと、現場をリアルタイムずっと見てきた人間としては、思っちゃったりするわけです、まあ、ジジイのたわごとですかね、ふがふがふー。

昔、プロモデラーだった頃は、とにかく、手が早い、ということを便利に使われていたので、最盛期は、月に5,6個模型を作る、なんてこともありました。
それも、フルスクラッチビルトだったりします。

今考えると、なんであんなことが出来たのか、さっぱり分かりません、物理的に不可能だろうと思います(笑)
が、とにかく、そんなわけで、合計すると、猛烈にたくさんの物を作っているので、その中には、完璧に忘れているものもあります。

そういうわけで、模型雑誌とかガレージキットのネタも出していこうとは思ってますが
えー、そんなこともしてたのか?
っていうネタのほうが面白いだろう、というわけで、まずはそれです。

めっちゃ、記憶の奥底を掘り起こしました(笑)

昔は、オモチャ、模型メーカーのお仕事もしてました。
お仕事ですから、「これこれ、こういう番組が始まるので、こんなものを試作してください」みたいな話がちょくちょく来るので、やらせてもらうわけですが、番組やネタ的には、全く興味のない仕事も来るわけです。
で、たいていは、大急ぎの仕事だったりしますので、すごい短期間にやって、興味がないからすぐ忘れるわけです。

でもって、なんか、忘れてるネタを思い出せないか、と必死で思い出したら、最初に出てきたのがコレ(笑)
1991年放送のアニメ
緊急発進セイバーキッズ
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放送が91年なので、仕事は90年だったのかもしれません。
とにかく、このアニメは資料用以外では、たぶん一度も見たことがないです(笑)

自分が作ったものの写真はないので、ネットで拾ってきた写真を載せておきます。
あまり記憶が定かではないのですが、バンダイの仕事で、模型の試作品を作った記憶があります。
それよりも仕事として大きかったのが、たぶんホビーショーだと思うんですが、Youtubeに91年のホビーショーの様子が上がってましたが、バンダイのブースに存在しないようなので、ひょっとすると、全然違うイベントだったかもしれません。
とにかく、展示するための相当に大きなメカを作った覚えがあります。

ネットで検索すると、上の画像の二機と、下の画像の大きなメカは記憶にあるので、たぶん、3機作ったんだと思いますが、すっごいスケジュールがメチャクチャだった記憶がありますね、たぶん1週間以内だったんじゃないかと。
さすがに一人では無理なので、下のメカは、当時、仕事を手伝ってくれてた友人にほとんど任せた記憶がありますが、確か、全長30センチを越えていたと思います
なので、他のメカも、それに準じていた、相当に大きなものだったんだろうと思います。
確か、スチレンボードをポリパテでコートして作ったような覚えがありますね

そんなわけで、全く記憶があやふやなので、まるっきり間違っているかもしれません、どなたか、当時のホビーショー?の展示の様子を覚えている方いませんかね?
懐かしいなぁ、どっかに写真残ってないかなぁ

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