最近、いくつか模型を作っていて、ふっと思うことがあるんです。

ずっとちまちまいじってるAMTのムーンベース・アルファなどは、特に思うんですが、こういう古いキットだとか、デキの悪いキットだと、パーツが歪んでたり、ダルかったり、打ち出しピンの跡がものすごい残ってたりすることがあります。
たとえば、1ミリぐらいの幅の棒状の凸モールドの表面に打ち出しピンの穴があると
ここ、削り落としてプラ板貼り直したほうが早いよなぁ
と思うわけですよ

ディテールが甘いとか、間違ってるとか、そういう修正はまた別の話なんですけど、元のパーツの形をそのまま作り直す、という類の修正ですね

そんな風に
修正するなら、作り直した方が綺麗だし、早い
という部分が多々あったりするのですが、あえて、仕上がりが悪くなりそうなややこしい箇所でも、パテで埋めてみたりして、削るのに苦労したりします。

要するに、プラモの部品をなるべくそのまま生かそうとするわけなんです。
ムーンベースでも、基地の建物同士を繋ぐチューブが大量にあるんですが、これがもう、まんま2ミリプラ棒サイズの角棒なんですよ
で、結局は、あまりの面倒さに挫折して、最後は2ミリプラ棒で代用しましたけれど、最初は、付属のパーツを使おうとしてました。
その付属のパーツっていうのが、もう、表面にずらりと打ち出しピンの跡が並んでいて、すごい直すの面倒なんですけど、あえて、パテで全部埋めてましたもの。
最後に挫折したのは、細い棒パーツなんで全部がぐねぐねに歪んでまして、ピン跡はともかく、歪みの修正があまりにしんどかったんで、諦めたという次第ですが、とにかく一度は、すごい修正が面倒なのに、あえて元の部品をまんま使おうと試みてます。

なぜか、そういうことをする。
なんで、よく、そういうことを思うのかっていうのが自分でも疑問で、つらつら考えてみると、結局
プラモを作ることが楽しいから
なんですよ
要するに、趣味だからなんです。

パーツやディテールの自作っていうのも、むろん、趣味は趣味です。
ただ、その手の「手直し」は、ある程度まで行きすぎるとフルスクラッチビルドと変わらなくなることですよね
どこからどこまでフルスクラッチか、セミスクラッチか、というのは境界線はありませんが、とにかく、そうなってくるともう「プラモデルの組み立てを純粋に楽しむ」というのとは、違う意味合いになってきます。
趣味としての、種類が違う、とでも言うか。

うーん、うまく言えないというか、個人的な感覚の問題なので、伝わらないかもしれませんけど、私個人の中での捉え方、感覚的な部分が違うんです。

たとえ、ほんの少しでも、パーツの自作的な部分を増やすと、そうしたニュアンスを感じるので、なるべくパーツを生かそうとしているのだなぁ、と分かったわけなんです

もし、お仕事だったら、スッパリ作り直したほうが綺麗になるし、手間も省けるから絶対にそうするんですよ
だけど、趣味だと、手間かかっても、なるべくはプラモの部品を生かそうと考えます
さすがに修正ではどうしようもない場合は自作しますけどね

なるべく元のキットの味というものを残そうとでもいうか、プラモはプラモとして作ろう、と思っちゃうんですな
要するに、同じプラモデル作りでも、スタンス次第で作り方が変わってくるっていうことで、これは面白いなぁ、とちょっと思います。
まあ、あくまでも、私個人の感覚の話ですけど、こういうのは、一度は仕事で造型をさんざんやった後だからこそ、思うことなのかもしれないなぁ、とは思いますね
仕事でも、プラモを作る仕事と、フルスクラッチの仕事は、感覚が別なんですよね
なんで別かっていうと、プラモはいくら手を入れたとしても、そのプラモをベースに考えるわけで厳然とした元の形がある、そのキット、というのは、要するに「メーカーの作品」なわけで、あくまでも、メーカーの作品ありきで、それを生かして良いものを作ることを考える。
スクラッチはゼロから自分の感覚で形を作り出していくわけですから、ディテールうんぬんなんてことより、まず根本として形状第一、形状命みたいなところで自分だけのセンスで考えるから、全然作るときの感覚が違うんですよ
そういう区分けの感覚みたいなのが深層心理に深く根付いているから、このへんの「スタンス次第で作り方が変わってくる」現象が明確に出てくるのかなぁ、と思います。

だからなんだ、っていうわけでもないんですけど、なんとなく興味深いな、とちょっと思った次第です。